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重光 葵    (しげみつ まもる) <1887〜1957>

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87年大分県に生まれる。東京帝国大学法科大学独法科卒業。外務省に入り、1929年上海総領事、31年中華公使、32年上海事変停戦協定を成功させ、直後暴漢の爆弾により右足切断の重症を負う。33年外務次官、36年駐ソ大使、39年駐英大使、戦乱のヨーロッパより日独伊三国同盟の危機を警告。41年中華大使、43年東条内閣外相、続いて小磯内閣外相となり、木戸幸一内大臣とともに「鶴の一声」(聖断)による終戦を話し合う。
1945 年8月東久迩宮内閣の外相となり、9月2日降伏文書調印の全権として米艦ミズーリ号で調印。巣鴨生活を終えて1952年改進党総裁、54年日本民主党副総裁、鳩山内閣副総理兼外相。56年日ソ交渉にあたるが不調。12月国連加盟に際し、日本代表として国連総会「日本は東西の架け橋となる」と演説。
57年1月26日、ここ湯河原の別邸で急逝、享年69歳。

 
 

 

重光葵記念館 2000年オープン

〜 ご挨拶 〜

私は、父がなくなった年を過ぎる頃となり、父が外交官として歩んできた道をたどってみた。そこに父の生きざまをはっきりと見る事ができた気がする。
父の関わってた日中戦争、第二次世界大戦、終戦、日ソ交渉、国連加盟など我が国がたどった激動の20世紀の歴史を子供達に正確に伝えておく必要を感じた。
幸い歴史研究家で長年懇意にして頂いている渡邊行男氏と話し合い、「終戦物語」「東西の架け橋」「日米開戦」と題する3本のビデオにこれをまとめて頂き、私の手元に保管しておいた父の遺品を展示すると共にビデオを公開し、日本の将来を語りあう一助とする事にした。
父は上海事変の際、爆弾によって負傷し、命をとりとめたが片足を失い、1933年外務次官として復帰したが、以来20年間、この都に保養所を作り、傷の痛みを和らげながら、外交官、外務大臣として政務に励むことが出来た。
私は感謝をこめてこの地に記念館を建て、父を偲ぶこととした。

                                             重光 

 

            <重光記念館 正面>

 
 

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